ライン

週刊わやソング

2006.2.20号

特集:父と息子と

今回の「週刊わやソング」は久しぶりにライブ再現型とします。
トーク部分を文章化することになるので、
歌部分としては、曲名をクリックして歌詞を是非お読みください
2月16日にアランプーサンで弾き語り市としてやった約45分のライブ。
テーマは「父と息子」です。
再現といっても、ライブでは語らなかったことも書くので、
相当のボリュームになりそうです。

今夜のライブは12月15日に予定されていたライブを、
13日に父が亡くなってキャンセルした分のリベンジなのです。
四十九日も過ぎ、納骨も終わって一段落したのですが、
実はまだボクの中では親父の「死」が整理できていないのです。
父のことが詞に出てくる歌やボクが父として息子とかかわる歌を歌うことで、
一つのけじめにじたいと思っています。

まず1曲目に『自動車運転免許』を歌います。

子供の頃のボクにとって父は「車の運転ができる人」という点で憧れの存在でした。
ボクが運転免許を取ったことは、「親父に並んだ」ってことでもありました。
今のボクは息子たちにとっては「運転の上手な人」としてかっこよく見えてるはず。
ただし、上手といっても妻と比較してって程度のことだし、
ときどきスピードの出しすぎを注意されたりしているのでした。
教習所の車以外で初めて運転したのは父のブルーバード。
こいつはずいぶん距離も走ったし、12年以上乗っていたはず。
そのあと、乗り換えて、父の最後の車になったのはカリーナEDでした。
そのカリーナEDも買い替えが必要になってきた頃、
父は自分の健康状態を自覚し、姉に車を譲って、
その後は一度も運転することはありませんでした。

父が亡くなる前に土日の一泊二日で、入院してる父をお見舞いに行きました。
そのときは話もでき、一安心したりもしたのですが、
それがボクにとっては最後の父の姿になりました。
火曜の午前2時、亡くなったとの報せに妻と息子も一緒に四国に向かいました。
そして、年明けて1月2日に以前からの予定通りのお正月休みの帰省。
さらに、1月末には四十九日と納骨でまた四国にいきました。
2ヶ月の間に4回もの帰省はボクが大学生になってからは最多です。
毎年、夏と正月の2回の帰省は欠かしませんでしたが、
父の死は、名古屋で結婚し、家を構え、子育てをしているボクにとっての故郷を、
また少し、身近に感じさせてくれました。

2曲目に『梅雨明け宣言』を歌います。

ボクの結婚披露宴は名古屋でやりました。
そのころはまだ元気だった父も出席し、アカペラで歌ったりもしてくれました。
この歌は、花嫁お色直しの間にボクが一人で歌い、
母や親戚のおばさんたちを泣かせたのですが、
ビデオでみると、父も上を向いて涙をこらえてるような様子が映っていて、
我ながら名曲だなあと思ったのでした。

そうそう、1月末の帰省で最近出来た温泉に初めて行ったのですが、
この温泉はスゴク見晴らしのいいところにあるのです。
ボクの実家ある町は、平野はそんなに広くなく、
西日本一の標高を誇る石鎚山へ続く山が迫っていて、
その山の麓の丘にボクの通った高校があって、
その高校からは平野や海が見下ろせるのでした。
高校にはぜいたくにもグラウンドが三つあって、
一番上のグラウンドからはさらにいい展望が望めていたのですが、
高速道路がその上を通り、サービスエリアができて高校を見下ろす形になり、
さらにハイウェイオアシスがその上にでき、
さらにさらに、その上にできたのが温泉なのです。
その日は残念ながら天気はイマイチでしたが、
露天風呂で立って高校や海を見下ろしていたのでした。
あ、今の高校生は逆に温泉を見上げているのかも。
いいものは見えないと思うけどね。

3曲目は『遺伝子』を歌います。

ボクが父と母から受け継いだ遺伝子は、
息子へと受け継がれました。
ボクの父と母もそれぞれに祖父と祖母から受け継いでいて、
それはずっと遡って続いていて、誰かがどこかで交わっているのです。
ところが、最近ボクにとっては不思議なことがニュースを賑わしています。
いわゆる「男系」「女系」という議論です。
したり顔で「染色体」の「Y」がどうだ「X」がどうだという人もたくさんいます。
ボクにはある特定の家系の将来を大騒ぎするのはナンセンスだとしか思えません。
その家系を維持することは国民の総意に基づいているらしいのですが、
ボクはその総意からは外れていますが国民であることは間違いないのです。

ボクの実家には代々受け継がれてきた古い銅製の鏡と刀があったのですが、
数年前に処分してしまったと聞きました。
鏡の裏には「藤原光長」という銘が入っていて、
モノは鎌倉時代以前のモノに違いないと思うのですが、
受け継がれてきたといっても始めはどっかで掘り出したというようなことだと思われ、
ありがたがる必要もないのです。

4曲目に『散髪と父と息子と』を歌います。

先週、散髪に行ったばかりです。
今回も息子二人と一緒に行きました。
まだこの歌で歌った「一人で散髪に行く」ということにはなっていませんが、
遅かれ早かれそうなります。
親離れはイコール子離れなのですね。
ちなみに、父は亡くなる少し前に母に散髪してもらったそうです。

親が死ぬということは子供にとっては一番大変なことで、
ボクも子供の頃だったらすごくショックなことだと思うのです。
さいわい、成長につれて親離れがある程度できていたようで、
父の健康状態が長期間だんだん悪くなっていってたこともあって、
父の死を我ながら意外なくらい落ち着いて受け止めることができました。
いや、まだ実感できてない部分があって、これからまだまだ引きずるとは思うのですが。
電話で連絡を受けたのが深夜の2時で、
始発が出るまではどうしようもないので、それまでの間、
メールでライブのキャンセルの連絡や職場への連絡のFAX原稿作りなどをやっていました。
留守の間、ウサギをどうしよう、何てことも考えて、
学童に預けることにして置手紙まで作ったりもしていました。
ま、何かをしていないと落ち着かないという感じもありましたね。
四国と名古屋、離れて暮らすからには覚悟はしていたというのも
今だから言えるのですが。

5曲目は『一福子連れ編』を歌います。

ボクは息子が早く大人になって、ボクとお酒を飲むのを付き合ってくれるのを心待ちにしています。
父も、ボクとお酒を飲み交わすのを楽しみにしていたに違いありません。
もっとも、飲酒そのものはけっこう子供の頃からお客さんの飲み残しを飲んだりして、
経験は積んでいたのですが。
帰省した折には晩酌を付き合うという感じで一緒に飲んで話をすることはできてました。
ただ、居酒屋などの外で飲むという経験はとうとう出来ませんでした。
サザ○さんの波平・マスオ親子が羨ましいかも。
その代わり、鮮明に記憶に残っているのは、
父に初めて連れて行ってもらったラーメン屋のこと。
店の人と馴染みの会話をする父はなんだかかっこよくて、
食べた塩バターラーメンはものすごく美味しくて、
ただの国道沿いのチェーン店だったはずだけど、
自分の中でのラーメンランキングbPなのでした。

逆に、息子たちは赤ちゃんの頃から一福に連れて行ったりしてたので、
彼らにはそういう感動の記憶はないのだろうなとちょっと寂しい気分。
最近ではつきあってくれなくなったので、二十歳になるまでおあずけなのでした。

さっき、「遺伝子」を伝える話がありましたが、
親から子へ伝えるものはそれだけではありませんね。
経験や想いを伝えることがスゴク大事だと思います。
父がボクに伝えてくれたことで、
ボクが息子たちに伝えていかなければいけないことの一つが戦争の体験です。
父は第2次大戦の終戦を満州で迎え、シベリアに3年間抑留されました。
まだ召集も来ない年齢で満州へ行くことを決断した父。
周りの人が次々と死んでいく中で、生き延びたシベリア生活。
小学校6年生のとき、社会の授業で、家の人の戦争体験を聞こうというのがあって、
ボクは父に話してもらうのをカセットテープに録音して授業でみんなに聞いてもらいました。
(ライブのときはカセットではなくオープンリールだったかもと話しましたが、
 その当時はカセットレコーダーがあったことを思い出しました)
そのカセットテープが残っていないのが返す返すも残念です。
そのときの父は自然な語り口ながら同級生や先生がじっと聞き入る
素晴らしい語りをしてくれたのでした。

最後に『偉い人』を歌います。

ボクが息子に伝えたいことの一つがこの歌には込められています。

今日はありがとうございました。

ライン




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